blog
2025.10.22
なんとなく東日本大震災の話をしようかな、と思っただけだったのに、なんとなく「私の履歴書」みたいになってしまったのですが。
どうせなら、この際「村上が代ゼミ講師になるまで」ぐらいは語ってしまうのも一興かと思うので、このままの流れで進んでいきます。
そんなこんなでサラリーマン社会は自分がいるべき場所ではない、自分は「授業者」として生きていくべきではないか、このように考え始めるようになった2010年、28歳の秋です。あのときまだ28だったんですね。
しかし、わたしの経歴をご存じない方は、
「いきなりただの事務系サラリーマンが代ゼミ講師になどなれるわけがない」
とお思いになるかもしれません。
まぁ今考えればそれも正しいのですが、それなりに講師のプロとしてやっていく自信はあったのです。
というのも、わたしは北海道大学文学部で6年間の大学生活(なぜ6年を要したかもいつの日か書くことでしょう)を送ったわけですが、その6年間は切れ目なくずっと北大学力増進会で、フル活動に近いレベルで学生講師をやっていたのですね。
自分で言うのもアレですが、実際代ゼミ講師としてもう10年以上活動してこれて本まで出したのですから、もう言ってしまっていいでしょう。
授業は大学生当時から結構うまかったんです。
姿かたちはそれは若々しさと初々しさたっぷりだったと思いますが、ブラインドテストで目隠しをしたまま大学3年生以降のわたしの授業を聞けば、ほとんどの人は社会人プロ講師、それも結構な経験を積んだ人間の授業だと認識したはずです。
というか、若くて勢いがあるぶん、純粋な「授業としてのうまさ」「生徒アンケートのスコア」で競争したら、今のわたしは大学生当時のわたしにもしかしたら勝てないかもしれない。
ただ、前回述べたとおり
「授業だけでプロとして食っていくフリーランス」
などという職業がこの世にあることをイメージしたことすらなかったので、塾講師、予備校講師になろうとそのときまで考えたこともなかったんですね。
いろいろな理由もあって「塾の正社員」にはなりたくなかったですし。
まぁ今にして思えば最終的に自分で塾を開くなら、営業や運営の勉強として数年ぐらいは大手塾で社員やってもよかったかもしれないですけどね。
ただ、そういうキャリアに進んでいたら多分代ゼミ講師にはなれなかったんじゃないかと思います。
人間の運命はどうなるものか、何が何につながるか、本当にわからないものだと思います。
そんなことを考えて、プロ講師として食っていく道があるかもしれない、と希望を抱いたわたしは代ゼミ採用試験に応募を検討したわけですが、問題は何の教科で応募するか、です。
もともと北大学力増進会では「英語科」所属で、いちばん偉かったときの肩書も「英語科主任」ではあったものの、どちらかというと国語をメインに教えるタイプの英語科講師だったんですね。
(増進会には「国語科」という科はなく、「英語科」講師の中で「英語派の英語科」と「国語派の英語科」に分かれる感じでした。で、わたしは後者)
よって、サラリーマン生活4年のブランクがある状態で、教えた回数も国語ほど多くない英語のフィールドで勝負できるとはとても思えなかったです。中小・中堅予備校で修業を積んでから大手にチャレンジとかならまだしも、いきなり代ゼミですから。
同じ理由で、当時20代だったわたしは古文・漢文の知識にまだまだ不安があったため、古典講師としてチャレンジするのも正直厳しいだろう、と。
となると、もう結論は「現代文」しかありません。
「現代文」科のプロ予備校講師になろう、そう決意したわけです。
ただ、現代文というか国語全般について、北大学力増進会に高校クラスがそもそも存在していませんでした。
(今は知りませんが)
よって、浪人生はもちろんのこと、高校生(現役生)を相手にすらわたしは現代文を教えたことは一度もなかったのです。
中学生相手の世界では十分な実績と実力があったと自負していますが、いくらなんでもその状態で最大手予備校の採用試験に一発で受かるものなのでしょうか?
まぁ普通に考えて無理でしょう。
さすがに厳しいだろうと思いつつも、一度「授業者として生きていきたい」と思ってしまった以上、このままサラリーマンを継続する気持ちにはもうなれません。
よって、代ゼミ講師だけではなく、SAPIXなど首都圏の塾の正社員募集にもいくつか応募することになります。
(SAPIXと代ゼミが経営が同じだとはそのとき知りませんでした)
(つづく)
お問い合わせの前に、必ず以下の「入会案内」をお読みください
24時間以内に、メールにてお返事を差し上げます