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代表・村上翔平

大震災のその年に① サラリーマンとして

先日塾の地震対策の話を書きましたが、その流れで東日本大震災のときの思い出でも語ってみましょうか。

ただ、東日本大震災の話にたどり着くには、わたしが代ゼミ講師になった経緯をある程度話しておく必要があるでしょう。

わたしが代ゼミ講師になったのは2011年4月なので、まさに震災の直後も直後なのですね。

だから震災が起こったときにはもうENEOSを辞めることはとっくに決まってましたし、代ゼミ講師になることも、どの校舎で授業するかも確か全部決まっていたと思います。

2007年にENEOSに入り、2010年にENEOS北海道支店から横浜の研究所に人事として異動したわけですが、結果的に新しい職場は水が合わず、当時の彼女ともぜんぜんうまくいかずで、あまりというか全然いい思い出のない2010年でした。

研究所の一年間は職場にいるのが嫌すぎて、当時新人研修担当だったのをいいことに「新入社員とのコミュニケーション」を名目にしてずっと新入社員とダラダラ休憩所でしゃべってた記憶が強くあります。

あと当時は高専卒の採用担当もやっていたので、全国の高専をめぐって各高専の教授と打ち合わせをしまくってたのも覚えていますね。職場の自分の机のところにできるだけいたくなかったんですよね。

そんな感じでいまひとつ張り合いのない生活を送る中、2010年の秋に代々木ゼミナールの講師募集が新聞に載っていたのを、当時住んでいた横浜・鶴見の寮で発見するわけです。

札幌に住んでると「予備校講師としてフリーで働く」という生き方が存在することさえ知る機会がないですから、

「なるほど、そういう生き方もあるか……」

とリアルに考え始めてしまったんですね。

もともとサラリーマンはいずれ辞めて、何らかの形で独立したいとは北海道にいるうちから思ってはいましたが、その道で食っていく方法もあるのか、と。

ちょうど、代ゼミ講師に応募するかどうか迷っているタイミングで、仕事で社員向けの「英会話教室」の企画を担当していたんです。

ベルリッツか何か、そういう感じの英会話学校の営業担当と打ち合わせして、社内で受講生募集して、ネイティブの先生の控室準備したりと、あれこれと裏方をやっていたわけです。

で、そういう教務に関わる仕事で、裏方の仕事をやればやるほど、

「やはり、自分で教える側にまわるべきだ」

「わたしがいるべき場所は、裏方ではなくフロント・マンだ」

という気持ちが日に日に強まっていくわけです。

結局、締め切りギリギリで代ゼミ講師の採用試験に向けて履歴書を送ることになります。

(つづく)

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