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代表・村上翔平

大震災のその年に⑩ 東日本大震災

とうとうタイトルの回収回です。

代ゼミ講師として内定を取り、退職届を出し、その他の予備校との契約も済ませて生活の目処をつけ、流山の新居も決めた後は、前回述べたとおりいくつかの予備校の春期講習をやりながら、残務処理でENEOSにも出勤しつづける毎日を送っていました。

残務処理というか、就活で有給を使いきってしまったために有給の残りがほぼゼロだったので出勤せざるをえなかったというのが実際のところなのですが。

で、わたしが当時ENEOSでやっていたのは研究所の人事、採用、研修担当という仕事です。

なので、3月は思いっきり会社説明会の時期だったんですよね。

わたし自身は高専卒採用の担当なので直接大卒、院卒の採用は担当していなかったのですが、同じ採用チームということで大卒、院卒向けの説明会セッティングとか、司会とか、そのへんの仕事はわたしも担当していました。

そんな、2011年3月11日、その日は京都大学大学院の院生に向けた会社説明会が研究所であって、ちょうど昼休み明けの13時から説明会がスタートしました。

いつもどおり普通に会社紹介のDVDを流していた、まさにそのときだったかと思います。

緊急地震速報的なものが所内で緊急放送されたのは。

そのときはわたしは2Fにそのままいたような気もしますし、DVDを流している間は1Fの事務室に戻っていたような気もします。

どこかの画面で「震度7」を表す警告みたいな画面を見た記憶があるので、となると1Fの事務室にいたんですかね。

もう12年も前の話になると記憶がかなりあいまいになっています。

「これは、とんでもない地震が来る?」

と思ってすぐに2Fに行って説明会参加者に「やばい地震来るらしいから机の下に隠れて」という指示を出した記憶がありますから、うん、やっぱり警報が鳴った時点では1Fに戻っていたのだと思います。

そんな感じで2F大講堂に行ったら本当にものすごく揺れ始めて、あまりの揺れにもはや笑うしかない感じになり、最前列にいた京大の院生に「やっばいねこれwww」と揺られながら話していた記憶もありますね。

地震がおさまってから全所員外に避難して、具合悪くなった人を介抱するとか、非常食の手配とか、そんなことをやってひと段落ついて、みんなでテレビみたりネットみたりしながら情報収集するうちに、

「どう考えても今日は帰れるわけがない」

と早々に京大の院生の人々はあきらめがついた感じで、徐々に彼らも「小中学校の宿泊研修」のようなテンションになっていったのをよく覚えています。

こっちも、最初のうちは忙しかったですが夕方ぐらいからは何もやることがなくなり、とはいえ京大院生が大講堂に残っている以上わたしが帰るわけにもいかず(車だったので帰ろうと思えば帰れたと思う)、結局朝までひたすらTwitterやっていたような気がします。

というか、それまでTwitterってそんなに活発にやっていなかったので、本格的にTwitterやり始めたのはこの日が最初です。そういう人は結構多かったと思う。

いや、さっきも言いましたけど、本当に記憶が曖昧になっているものですね。

非常食の準備をしたとさっき書きましたが、わたしがその非常食を食べたのかどうかも思い出せない。

一日ぐらい何も食べなくても大丈夫だろうと思って食べなかったような気もするし、一応食べたような気もするし。

京大の院生たちは、いつの時点で京都に帰っていったのでしょうか。

翌朝わたしが帰る時点ですでに目処がついていたのか、目処はついていないけど徹夜勤務明けなので誰かに彼らのことを任せてもう帰っていい、という話になったのか。

当時の出来事を克明に記すドキュメントを書くはずが、むしろこの記憶の消失っぷりに衝撃を受けざるをえません。

その後、原発のメルトダウンに軽くビビりつつ、寮に戻って「あいさつの魔法」CMを見ながら東北出身の同期をなぐさめたり、そんな記憶が断片的にありますが……

で、なにせ3/11が大震災で、わたしのENEOS在籍は3月いっぱいだったわけで、全然時間がなかったんですね。

ただ慌ただしいだけで日々が流れていった感じで、どんな仕事をしていたのかもよく覚えていない。

そんな中、数少ない記憶にあるエピソードがいくつかありますので、次回シリーズ最終回、大震災から退職当日までの話を申し上げることにいたします。

(つづく)

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